ぐ
  い あん
愚為庵
と
農園のいわれ


大地家は江戸時代以前からこの地に住み、小さな庄屋の一人として、代々農業をいとなんできました。
先代は医者であったためしばらくこの家は閉じられ、農家は途絶えていました。
十余年前に今の当主が帰農して、しいたけと花の大地農園として再出発しました。

母屋の遠景

 二百年以上前に建てられたといわれる母屋は、十三年前に屋根を葺き替えられました。(当時の職人は、すでに全員引退してしまっている。)
 かまどのあった奥の土間は、厨房として手を加えられ、八年前から”愚為庵”として雅流懐石を提供しています。
 特に意識しているわけではありませんが、今流行のグリーンツーリズムからいえば、農家レストランですね。



愚為庵その名の由来
あるじ一家がこの地に戻る前は、東京は田園調布の、多摩川を見下ろす小高い丘の木立の中に建つ庵に居を構えていました。
 夜な夜な酒好きが集う内に、定期的に日本酒の聞き酒会を催すようになり、その会の名前を「愚為の会」と名付けました。
その意味は、酒をグイグイ飲むばかりで、なんと愚にもつかない馬鹿馬鹿しいことをやっている集まりか、というような意味合いなのですが、その実、音楽業界を中心とした、当時の日本一線級のカタカナ職業異業種交流会の様相を呈していたすばらしい集まりでした。
 この集まりに饗されていたつまみ料理が、この愚為庵料理のルーツであり、酒好き達の舌が、味を磨きました。


愚為庵の建物紹介
この地方の里山に伝わる、典型的な農家の建築様式です。
庄や宅の雰囲気を伝える塀地門が50年前に、又、茅葺きの側屋一棟が20年前に取り壊されましたが、その他は、かっての面影をほとんど今に伝えています。

◇土間入り口
この庭にむしろを広げて籾を干しました。
(左手の染められた布は、まるごとミュージアムの展示作品)



◇土間
          塩を加えて固められた土間は、湿度によって季節ごとに
         その色を変えます。昔は、夜なべのわら仕事の作業場でした。
                          (壁面の絵は、星孝司作品)




                     ◇囲炉裏
            はるか昔からここで火が燃えていました。
           家中にたなびく煙の燻製効果で、茅屋根と木部が長く強度を
           保つのです。写真中央の大黒柱の位置が家長の席です。



                      ◇奥座敷
       あるじの部屋で、他の者はなかなか入れなかった。
       ふすまを取り外すと40畳の広間となり、祝言・葬儀が
       ここで行われた。今は、雅流懐石がここで提供されます。
       六十名程度まで可能。(八十名の実績あり。)


                             ◇離れ
         かっては農機具小屋でした。
          この建物が一番新しいのですが、百年経っています。
          少人数で、ゆっくりしたい方に好評です。



                    ◇納屋
      空き家期間中の、田圃の土地改良による排水不良から土台
       が痛み、屋根が傾いでいます。
       左側が馬屋で、右側が米倉でした。
       この建物の左側に、藁や農具をしまう同規模の茅葺きの側屋
       がありました。

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