元祖!月の沙漠

「月の沙漠」記念像



「御宿ってこんな所」コーナー

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 黒洗う太平洋に面した、房総半島は東側の外房御宿は、面積にして約25平方
キロメートル、一辺5キロの小さな町です。
40数年前に、当時の御宿町と、浪花村の半分と布施村の半分が寄り集まって、
今日の御宿町が出来上がりました。
過疎化の流れを受けて人口の減少が続いていましたが、大規模なリゾート住宅開発
により、都会からのリタイヤー移住人口により、減少がくい止められています。
大地農園は旧布施村に位置しており、合併時の布施村の村長は、先々代の大地重直
が勤めていました。
 3つ寄り集まった町と村は、それぞれにはっきりと特色がありました。
純農村の布施。純漁村の浪花(岩和田地区)。そして商店街からなる町部の御宿です。
わずか25平方キロの町で、漁村部の言葉(方言)、農村部の言葉、そして標準語とが
使われており、3地区から生徒が集まる中学校では、3カ国語が交錯しているような感
じでした。
今でもお年寄りは、自分の地区の言葉を話しますが、だんだんその方言も使う人が少
なくなっていくのは寂しい物です。
3つの言葉があると言うことは、言い換えれば3つの文化があると言うことです。
こんな小さな町で3つの文化が混在し、なおその上近年は、リゾート住宅地への都会
からの異文化が加わり、そして海と山の恵みが居ながらにして享受出来るという希有な
町です。





 「月の沙漠」発祥の地

 大正ロマンの作家の一人に加藤まさおがいます。
挿し絵画家としていっせいをふうびした彼が結核を患い、その病気療養のために滞在した
御宿の海岸をモチーフにして書いた詩が、童謡として唱い継がれている「月の沙漠」です。
各地に、「我が町の砂丘こそが“月の沙漠”の発祥の地だ」という話があります。
確かに御宿海岸の白い砂浜もすばらしいものです。
しかしタイトに注目してみれば分かりますが、砂漠という字が、‘砂’ではなく‘沙’です。
これは次のことを意味しています。
ラクダが渡っていくのは砂浜ではなく、月の光に照らされて金色に輝きながら、次々にうち
寄せる波の連なりの事なのです。
月の明るい夜、御宿海岸の砂の丘に座って海を眺めると、詩人加藤まさおの書いた「月の
沙漠」の世界がそこに広がっています。



王子とお姫様




「月の沙漠」記念館



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日西墨記念塔

 関ヶ原の戦いが済んでまだ間もない頃、御宿海岸の岩磯に、一隻の外国船がうち寄せられ
ました。
当時スペイン領であったフィリピンからメキシコに戻ろうとしていた、メキシコ総督一行を乗せ
た船でした。
激しい嵐に痛めつけられ、難破・漂流していたものですが、海女漁を中心に、海で生活をして
いた岩和田地区の漁師が総出で救助をしました。
一ヶ月近くの現地での生活の後、当時の領主であった大多喜城経由で、駿府の徳川家康の
元へ向かい、後にメキシコに送り届けられたということを記念して、海岸を見下ろす小高い丘
に記念塔が建てられています。
                              ・ ・ ・
 嵐に打たれ冷え切った難破船の遭難者を、海女達が肌で暖めて蘇生をさせたという言い伝
えがありますが、この地区には、彫りの深い、日本人離れをした顔立ちの人が見受けられます。
まさに国際交流の事実が刻まれています。



日西墨記念塔(メキシコ記念塔)




メキシコ塔由来記




メキシコ塔からの遠景(夕日景勝地)



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